頭から蒸気の記

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荒川アンダーザブリッジ・中村光の美しい「めくり」の技術

「聖☆おにいさん」でブレイク中の中村光さんだが、「荒川アンダーザブリッジ」
も相当おもしろい。

なかでも私がほんろうされてしまったのがいわゆる「めくり」の技術。
マンガの技法上、見開き左側の最終コマは次のページを「めくらせる」ために
「期待をもたせる」「秘密をほのめかす」「オチの前ふりをする」などの
効果をもたせるそうなのだが、これが実にうまい。

この「めくり」はTVドラマなどでのCM前に当たると思うのだが、
一時間もののTVドラマならオープニングあけを含めて多くて四回ほどで
あるのに対して、マンガの場合は20ページ掲載で9回ほど「めくら」
せなくてはならない。

しかしこれはあくまで理想で、シナリオにしてペラ10枚ほどもないで
あろうマンガで、そんなにたくさんのフリ・ヒキをつくるのは非常にむずかしい
だろうことは想像に難くない。
私の読書実感でいうと、「めくり」の技術を効果的につかっているのは
ストーリーマンガで一掲載で多くて5〜6回であろうか。(シナリオにあらわれるベース)

そして「荒川アンダーザブリッジ」である。
基本的にギャグマンガなので、もちろんフリ→オチは基本なのであるが、大きめの
ギャグを(たとえば)20枚の原稿で10個いれるとなると、ひねりだすだけでも
相当むずかしい。
しかもメインストーリーがちゃんとあるギャグマンガだから、それらのギャグを
プロットからはずれないよう、いやむしろプロットをすすめるように配置しなくて
はならない。

以前も「笑わせながらその隙にストーリーを進める」技法について書いたが、
ギャグの量と、それらが律儀に「めくり」という基本技術を踏んでいるという
質の面において、本作は秀逸である。

しかもこの「ギャグをかましながらストーリーを進める」場合と、
「単に前ふり→オチという純粋なギャグ」がおりまぜられていることによって、
「荒川アンダーザブリッジ」は読者である私たちに別の「めくり」の楽しみを
与えてくれる。

つまり、「次のページで、笑わせてくれるのか? 泣かせるようなドラマ展開を
してくれるのか?」と予想する喜びである。

しんみりさせる展開で、実はそれは単なる前ふり→予想を裏切って笑わせる、
というのは、一般的な笑いの手法だ。
しかし逆に、「これは前ふりだからギャグだ。どんなオチだろう?」と思わせて
おいて、胸の奥にひびくような一言が待っている。

これは実に効果的だ。
こちらは笑う気まんまんであるところへ、ぽろっと心の琴線にふれるようなセリフ
がとびだす。ふいをつかれるったらない。
まあ、反則だといえそうなくらいの不意打ちだ。
しかも、読者は「めくって」みなければ「笑いか、泣きか」がわからない。

まさにマンガならではの「めくり」の真骨頂だと思う。
感想群 | - | -

しかし「そうではない可能性」を書くのが物書きつとめですよ

あ、↓下の記事だけでは不完全なので、こういうことも記しておきます。


でもね、たとえば原稿用紙。たとえばテレビ画面。もしかしてスクリーン。
そういうものの上にのっけるものは、工夫してから、表現しないといけない
んですよね。

たとえば目の前に「つまらないもの」があるとする。

表現物ではなくて、現実の生活の光景とかそういうもので。
「くだらない」でも「絶望的」でもいいし、「悪意」や「敵意」
みたいな、どうにも好きになれそうにないもの。

それをね、「好きになれ」とはいわんのよ。
仕事で面白いこと書かないといかんから、とかそういう理由をつけてさ。

でも現実の自分が感じた「いけすかない」という確かな実感にはね、ウソを
ついてはいかんでしょ。まずそれが生存のための基本でしょ。

だって、「悪意が好きな自分」「害意が好きな自分」なんて、おかしいじゃない。
ポリアンナ症候群じゃあるまいし、そこで自分を誤魔化したら、それは
社会生活に支障がでるでしょう。

ちゃんと、嫌なものは嫌だと、悪は悪だと、
それはそれとして踏まえてみて、だ。
しかるべき対応をして、まずは現実を生きぬくための下地はちゃっちゃと
つくっておいて、だ。

そのうえでね、認識の可能性をさぐるのよ。
考え方じゃなくて、捉え方。
どういう見方をすれば、そこが「おもしろく」なるのか。
あったかもしれない組み合わせとして、あくまでも「現実はそうではない」という
認識の上で、
「フィクションなら、こう楽しくも出来る」
「こんな美しいことにもなる」
「なんておもしろくってたまんないことになっちゃうのか」
ってことを、だ。
空想したり検討したり、構成したりする。

そして然るべき作業をしたうえで、目の前の、その原稿用紙の上だけにのっけるのよ。
んで、推敲するの。

「ほんまにこれでおもしろくなってんのか?」

と。「いやダメだ」となれば、書き直すしかないよね。

どう書けば面白くなるかを考え直さないと。

そうやってつくりあげていく。
その時間と労力と努力にささえられているから、表現物は輝かしくて魅力的なんですな。

それをやるのはしんどいし、能力がもっと欲しいよなって思うんだけど。
方向性はそういうことだと、私は思う。
これが私のおしごとです | - | -

その背後にあるのは「欠乏」ですよ

基本的なことを思い出したので書いておく。

たとえばテレビだとか映画だとか、本だとか演芸だとか。
なんでそういうものが求められるのか。

「感動」だとか「感激」だとか、「うれしい」とか「楽しい」とか、
「爆笑」「笑った」「泣いた」とか、なんらかの熱に浮かされたような
感想が、そこかしこで語られている。私も含めて。

ゴルフだとかテニスだとか、テーマパークだとか美しい風景だとか
絵画だとか美食だとかも同じかも知れない。

そういうのって、なんか無条件に耳障りがよかったりする。
楽しそうな人を見るのも、楽しい話をきくのも心地よいことだから。

だからそれはそれでもちろんよいことであるし、そうですか、豊かですね、
実りある人生ですね、ということはいえる。

けど、やはりそこの元をたどれば、「なぜそれが必要だったの?」
という時点に戻れば、そこには、そういう気持ちの欠乏、飢えが
あったのだと思う。
日常生活ではそれらが満たされないから、プロの作り手がカネと時間
と技術をかけてつくってもので補う。

日常の食事ではまかないきれていないから、薬やサプリメントを
必要とするようなもので、それは現状に対応する手段としては
いたしかたないことで、生き抜くためにはとるべき道具のひとつでは
あるんだけど、そういうものを「必要」としていること自体、
満たされている人、そういうものが必要でないひとにとっては、
若干、不気味な存在に見えるだろうし、あまり自然なこととはいいがたい
状況にあることは忘れてはいけないと思う。

なんというかな。「同情すべきかわいそうなひとたち」なんだ。
私なんかは、きっとそうだろうが、しかし、顧みることはできると思う。

そんなに「いいもの」を求めなくてもいいんじゃないの?

モノつくってるとね、つい意地になって「感動させてやる」「笑わせてやる」
とか、そういう気分になっちゃうからね。書いておく。

そこまでせんでもいいじゃない。
これが私のおしごとです | - | -

バカだけどいい女

「バカだけどいい女」・・・ってセリフですよ! ドラマとかのセリフ。

おとつい飲み会があって、話の流れでドラマの話をしてたのね。
まあ座も盛り上がっていたし、ちょくといってみたのね。

もちろん前振りとして、「バカだけどいい男」「バカさゆえにカッコイイ男」みたいな話を、具体例をまじえて俳優さんとか役柄とかで語ってたんだよ。

結構盛り上がってね。

でもさ、俺が
「この話で言うと、『バカだけどいい女』っていうのが最高なんだろうねえ」
といったとたん。

その場(特に女性陣)の空気が零下に固まった。

さすがにそこはすぐに話題を切り替えて乗り切ったんだけど、いまだに
疑問に残るんですよ。

あくまでドラマ上の話ですよ。
「こびを売るようなバカな女のふりをする」とか、「天然を偽装して
かわいく見せる」なんてことを言ったんじゃないんですよ。

「能力はあって、知性もあって、だけど損得勘定をつい無視して
しまう、カッコイイ”バカな女”ってドラマ上、いるよねえ。
そういう役のひとってすげえ華があるよね」

という意味のことをいったつもりなんだけど。

現実社会では、女性の能力は知力ではかられていることとか、
やっぱそんなヤツいねえよ、という女の現実がそうさせるのか。

でも考えてみれば、僕もすっとそんな役どころの女優は思いつかない。

やっぱ女ヒロインは、どこかしっかりしていて、損をしてでも強がっちゃう、
みたいなことをすると、「みじめ」に見えちゃうのかなあ。
どこかでちゃんとカネとかそのたぐいを担保していたり、実は生き残って
子供をみごもっていたりしないと格好がつかないのかなあ。


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クジラの彼   有川 浩

 自衛隊を素材にした短編恋愛小説集。

 この作品集で有川浩作品をはじめて読んだのだが、評判通りのおもしろさはもちろんだが、ひとつ学んだことがある。恋愛小説についての認識みたいなもの、についてだ。

 恋愛物語とは、男女(もしくは同性)の恋愛感情模様を描いたもの、だと思っていた。
 しかしそれは同義反復でしかなく、すくなくとも実際に書いたりする上で「役に立つ」認識ではない。

 だいたい、ひとくちに恋愛物語といったって、身悶えするほど引き込まれるものもあれば、ばからしくて読んでられないものもあるし、単純に退屈でしかないものだってたくさんある。
 では、それらの違いはなんなのだろうか?

 たとえば、歴史小説なら、「このなにがしという侍の生き様を通して、○○○(抽象的なテーマ)について描きたい」ということを、普通、考える。
 けれど、私は「恋愛小説」の場合については、そういう考え方をしたことがなかった。そしておそらくそれは間違っている。
 恋愛小説だって、「なんとかかんとかを通して、○○○(抽象的なテーマ)について描く」という発想をするべきなんだろう。

 その論法で言えば、多くの恋愛小説は、「男女(もしくは同性)の恋愛模様を通じて、『愛』もしくは『恋』について描」いているといえるだろう。が、おそらくそれだけでは不十分だ。いや、不十分というより、それだと「で、それを書けたの?」と自問自答するとき、非常に不安な気持ちにならざるをえないのではないか。
 その理由は恋愛が普遍的なテーマであるからだけではない。はじめの方に書いた例と同じ、認識が同義反復の無意味さから抜け出しきっていないからだ。




 本作品群では、男女の恋愛を通じて、「誠実さとはなにか」ということが描かれている。
 自衛隊という、現代日本で一番身近な軍隊組織が舞台になっていることで、そのことが非常に明確に(私には)感じられたのだ。

 もちろん、誠実さを描き出すためには不実を書かなくてはならないだろうし、誠実でありたいと思う気持ちを邪魔する迷いや不安といった心情的な障害、ロミオとジュリエットのような物理的・状況的障害も描かれなければいけないだろう。そのためには実際に主人公たちが揺れなければ、物語にはならない。
 しかし、「軸」ははずしたらダメだ。

 できうるなら誠実でありたい。
 誠実に対しては誠実で応えたい、応えられたい。

 そんな願いがなかなかかなえられず、いや、むしろほとんど叶わないのが恋愛の現場だろう。
 だからこそよくできた恋愛物語の主人公たちは、「誠実」を軸にして物語を編む。
 嘘も裏切りも、手練手管も権謀術策も、原因をひもとけば誠実であろうとする強い願いにいきつく。

 と、まあそんな感じで書けば、ええ感じの恋愛小説になるんじゃないっしょうかねえ? と思いましたわけなんですよ。

JUGEMテーマ:読書


感想群 | - | -

物語は骨と肉だ、と考えることも出来る

 粛々と実作業を進めている。外から見ると遅いと見えるかも知れないが、結構がんばっている。ほんとうだウソじゃない。
 そんな中、明確にしておきたい考え方がまとまったので、書いておこうと思う。

 シナリオなどでは構成とストーリー(プロット・キャラクター・アクション・エピソードetc)の関係性を「コーヒーカップとその中身」にたとえられることがあるが、自分的には「骨と肉だよなあ、その方がピンとくるなあ」と思ったので。

雑駁に結論だけ述べておくと、
「構成は骨太でシンプル、わかりやすいものにこしたことはない。
 しっかりと構成しておけば、ストーリーは安心して”面白くできる”
 芸を駆使して、各シーンやシークエンス中で受け手を楽しませるのに専念できる。
 受け手が味わうのは肉の味なのだから、そのようにして物語(牛・豚・鶏など家畜類のイメージ)を育てるべきだ」
という、物語作りの方法についての比喩である。

 これは私がわかりやすければよいのだが、書いているうちにえてしてこのような感覚は忘れさられてしまうものだ。だから例をあげつつ、いつでもこの考えに戻れるようにメモしておくのである。

 その前に、ドラマツルギーだとかなんだとかの基本的な(私の)考え方をさらっておこう。
 私が作らなければいけないのは、
 「劇的な文脈」によって構成される「ドラマのある物語」である。
 素材は現実にあることでも、虚構でもかまわない。いずれにしろ魅力的な素材を、ドラマティック・コンテクストに従って並べなければドラマにはならず、物語にもなりにくい。
 そのためにはまず、構成が明確にされていなければならない。
 物語を作っているうちに、いつのまにかゆらいでしまいがちなアレである。
 そして結果わかりにくい、どこが山なのかどういうオチなのか、そもそも作り手は受け手をどうしたかったのか、が不明な、なんともいえない微妙な読後感をあたえてしまうという、例のアレを防ぐためによく指導を受けるヤツである。

 さてこれから未完・完結を問わず既存の作品を例に挙げて私のまとめた考えを記述していくが、もちろんそれらは作品の評論でも解釈でも、ましてや結末の予想でもなんでもない。これから私が使うべき道具について、明確に認識するために勝手に例としてあげさせてもらったものである。当該作品のファンの方がおられたら、このような使い方については、あくまで括弧付きの例示にすぎないことを理解していただければ幸いである。

 さて、それではとっとと要点を述べていこう。
 まずは構成とストーリーの相互関係をふくめた全体を述べる「テーマ」である。

 たとえば「のだめカンタービレ」なら、
「このマンガは、音楽についての物語です」ということができる。
「天才ファミリー・カンパニー」ならば「家族についての物語」だ。
「グラスホッパー」なら「復讐について」だ。

(いずれも、作品全体から受ける印象からは大なり小なり違和感があるだろう。当然だ。テーマから容易に内容が推測されるような作品は、おそらく受け手の興味を引くことはないだろうから)

 まずは短い作品からいこう。
 グラスホッパーの主人公は妻を非合法組織に殺された生真面目な男である。
 この非常に映画的なドラマは、主人公が遂げようとする復讐という目的(劇的欲求)がさまざまな障害にあって阻害され、ゆえに葛藤がうまれ、そしてなんやかやのうちに盛り上がって解決を迎えるという、非常にエンタテイメント性の高い、王道的な形をとっている。
 この主人公(「鈴木」という)がとる行動と反応(アクションとリアクション)がドラマを作り、進めていく。ゆえにこれが「骨」である。

 この「骨」の太さ具合は、奇想天外とも言えるさまざまな「殺し屋」たちが登場する中で、唯一「プロ」ではない「鈴木」が使った(奇しくも使うことになった)「殺しの方法」に象徴されるといえよう。

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 念のため書いておきますが、当ブログのページ頭にあるとおり、ここでは基本ネタバレありです。
 私は数行後に、「グラスホッパー」の結末を書きます。その点ご注意のうえ、皆さんの自己判断において適切な対処をしてくださいませ。
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 「鈴木」が結末近くで使用する武器、すなわち復讐の相手を殺すために使用した「武器」は「人間を殺さないこと」である。
 そしてこの「武器」は、なんと小説のほぼ冒頭で「使用」されているのだ。
 この構成を「骨太」といわずになんといおう。
 おまけに、「鈴木」はこれに類似した「武器」を使うことによって、ラスト近くで自らの身を守ることに成功している。もしこんなプロットをみせられたら、どんな編集者でもすぐに書いてくれと頭を下げに来るのではないだろうか。

 しかし、にもかかわらず読者が楽しむ「肉」は、忍法帳もかくもやという、さまざまな殺人者達の「対決」である。彼らの、まさに「増えすぎた昆虫たちが互いを食い合うかのごとき」エキサイティングな戦いぶりは、本小説のまさに「読みどころ」である。

 もちろん、伊坂先生が実際にどのような過程を経て本作を構成し、作り上げたかは、本論とはまったく別問題である。
 しかし仮定の話をすれば、この「鈴木」にまつわるドラマがなければ、異能者同士のアクションシーンが延々と続く作品となり、山があり、終わるべきところで結末を迎える、完成されたドラマ作品にはならない。言い方をかえれば、「鈴木案」が採用されなかったとしたら、別の「主人公」が設定されていたに違いない。

 かつての「いわゆるドラマ」と違い、今の物語市場では、「主人公」はかならずしも目立つ必要はなく、活躍する必然性もない。他の手段で物語を魅力的にする方法はたくさん開発されており、それを使った優秀な作品も多い。
 しかしここで忘れてはならないのは、どんな形であれ「主人公という要素」はドラマをつくるために不可欠であるという、当たり前の事実である。
 古典的なドラマツルギーからみれば邪道だが、主人公を軽んじても構わないし、うすくしてもいい。しかしすべての要素は主人公めがけて有機的につながっていなければならない。物語をドラマ形式にしたいのであれば、それは必要欠くべからざる仕事なのである。作る上でそこを意識しておかないと、受け手にこちらが意図したドラマが伝わらない危険性が格段に高くなる。
 もう一度書いておこう。ドラマとは、主人公のアクションとリアクションで「骨組みされる」ものだ。
(ここらへん、今の物語作り状況からすると、重要ではないかと思う)

 さて、次は「天才ファミリーカンパニー」だ。
 二ノ宮先生初の長期連載作品で、その構成力の高さを知らしめたヒット作である。
 この物語の主人公は天才的に頭脳が明晰で、アメリカへ行ってビジネスでの成功を収めたいという、これまたクラシックともいえる「劇的欲求」をもっている。
 そしてこれもまた王道的に、理性と知性を重んじる主人公の対立概念として、優秀であるがのんきでおおらかな「弟」が登場する。
 その対比を描き出しながら、主人公のドラマ上の目的が母の失業という事件において決定的に阻害されることで、三幕構成における「設定」にあたる、第一幕が終わる。
 第一幕の設定によって、第二幕で主人公は、自らの劇的欲求(世界でビジネスマンとして成功すること)を成し遂げるために、「家族」や「友人」、「恋愛」といった、今まで軽視してきた「情緒的な」ことどもを「解決」していかなければならない。
 つまり主人公にとっての障害は、この段階で「人間関係」そのものとなる。
 それまでクールに割り切ることによってのみ「人間関係」を乗り切ってきた主人公は、当然苦闘する。そのさまが第二幕の「骨子」である。
 そして「肉」に当たる部分は、あくまでも強気の姿勢をくずさないまま周囲の人間模様に翻弄される主人公や周囲にはびこる奇人に類する人々の姿の「おもしろさ」である。ここを、秀逸なギャグセンスでとことん「面白く」して、読者を楽しませる。作家の本領発揮である。
 一方、第一幕で主人公の対立概念として登場したのんきでおおらかな弟は、ここでも主人公とはまったく対照的に、なんの見返りも求めず、押しつけがましさのかけらもなく、人々を助け続ける。もしこんな人物を一人そのまま、たとえば主人公として出していたら、あまりにもありえなさすぎ、受け手に嘘くささを感じさせてしまうだろう。
 しかし彼は主人公ではない。「骨」を構成するわけではないのだ。
 具体的にいえば、弟の姿は悪戦苦闘する主人公の姿とのギャップそのものとして、「笑いの構成要素」に一見、見えるのだ。だから彼の存在は「骨」ではなく「肉」、つまり「おもしろさ、ギャグ」として受け入れてもらえる仕組みになっている。
 しかし、第二幕の骨子は、あくまでも「障害を乗り越えようとする主人公の姿」なのである。(それを正面から助けるのが弟である)。ゆえに、読者はさまざまなネタに笑わされながらも、気がつけば自分なりのやり方で人と向き合うことができるようになった主人公の姿を発見することになる。
 こうして書いてみると、「そんな風には感じないんだけれども」と思うかも知れない。というより、「そう感じさせないために」、内容である「肉」の部分をおもしろおかしく、説教がましくなく描くことが必要なのだ。
 もちろん逆もいえる。そういうベースのしっかりした、シンプルな題材を下敷きにしているからこそ、思い切った展開や笑いをはさんでも、ストーリーが混乱しない。奇人変人が異常といえるようなやりとりを繰り返しても、話の筋が迷走することはない。
 ギャグはギャグ。しかし肝心のストーリーは受け手の中で、確実に盛り上がっていくのである。
 そして第三幕で主人公は敵にあたる人物を物質的、精神的に屈服させ、成功を手に入れる。この結末において、作者がおそらく企図していたであろうストーリーの骨子が生きてくる。
 主人公のドラマ上の願望は、単にビジネスという競争の中での勝者になることから、家族に代表される近しい人々を守るために働き、助け、生きていくというものへと変化している。
 だからラストの主人公の姿は、決して傲慢なだけ勝者のそれには映らず、強気な態度の中にも親しみを感じさせる奮闘ぶりで、「夢の実現をしながらも、他人を助けて働いているのだなあ」、と感じられる。
 「そのようになるために」、主人公の弟である「春」という少年が、ほとんど聖人ともいえるような、他人への献身ぶりを示したのであり、その行動原理を主人公が吸収していくことこそが、このストーリーの骨の太さなのである。

(蛇足だが、この物語ではいわゆる起承転結プロットにおける「結」を非常に古典的な形で使っている。
 一般的には「結」はテーマの定着であるとされており、「この物語はこんなお話だったんですよ」というメッセージを込めて、ラストシーンとして作り手から受け手に対して、念押しの意味を込めてつけられるものだ。近年のドラマでは冗長として省略されるか、もしくは結で一波乱おこして「強く念押し」するか、いずれかが多い。
 が、ここでの役割は旧来の日本映画などでよく見られた、クラシックな意味での「結」である。つまり作者は、読み手に「主人公たちは結局は勝ったからこそよかったんだ。ゆえにこれはビジネス上の強者と敗者の物語だ」という解釈をされる可能性を、念入りに排除しているのである)


さて、いいかげん長くなってきたが、最後にもうひとつ書いておきたい。
「のだめカンタービレ」である。
これは「作品の”結果としてのおもしろさ”は、やはり”肉”のおいしさ次第である」ということをいうために、ぜひとも記しておきたいのだ。

このクラシック音楽ついての物語は、膨大の量のキャラクターが登場し、常に笑いをとりながらかつストーリーが進行していくという、読む方にとっては面白いことこのうえないが、かくほうはさぞかし大変だろうなあと思わずにはいられない作品である。

この作品の成功の理由は、「骨」の部分の徹底したシンプルさにあると思う。
非常に簡略に言えば、構成は以下のようだ。

第一幕における「大学編」で、理性的で音楽の「演じ手」として向上心のある男と、天真爛漫で「音楽はひとりで楽しくやればいい」としか思っていない女が出会い、行動をともにするようになる。
第二幕における「留学編」で、男はプロの演じ手として成長し、女は人に音楽を聴かせる楽しさを知り、努力するようになる。
まだ描かれていない第三幕(おそらく日本・プロ編か)では、まったく別方向から「音楽」に対してアプローチをしてきた二人が、なんらかの形(コンチェルトであることが予告されているが、どうなるかはわからない)でもって「音楽」についての、言葉ではなく物語の結末としてでしか伝わらない「答え」を示してくれるのだろう。

主人公二人の対立概念の使い方は「天才ファミリーカンパニー」とほぼ同じであるが、本作ではその対比ぶりがより徹底している。
生活態度、将来の考え方etc。なにひとつにているところがないといっていい二人である。
しかし「唯一残っている共通項」が「音楽を好きで演奏していること」。

こここそが、この作品の「骨の太さ」である。
なにしろ、作品のテーマが動くのが、「二人の音楽への想いが一致したとき」のみなのである。そしてその状況を演出しているのが、「のだめ」と呼ばれる女主人公の特異な性格ゆえなのだ。

たとえば第一幕。
学園祭で聴衆の心を打つ演奏をした男に対して、「同じように音楽をやりたい」と「のだめ」が思う。
しかし今のままではその願いはかなわない、という現実をつきつけられ、はじめて悔し涙という「ドラマティックな」感情をあらわにするまで、実に単行本で9冊を費やしている。

ほんとうに、動かないったらないのである。「主人公にしたくないタイプ」のキャラクターであることには間違いあるまい。

「フランス編」のスペシャルドラマを観て認識したのだが、このマンガは実に明快なプロットポイントをもっている。「フランス編」で「のだめ」が挫折をあじわってから聴衆へ音楽を聴かせることの喜びを得るまでの展開は、やろうと思えば約2時間半で過不足なく、きわめてドラマティックに描くことができるのだ。(その転換点である教会で演奏を聴く前後のシーンを、上野樹里が見事に演じている)

ただ、だからといってそこを短く描いてしまっては、「のだめ」を主人公にした意味がなくなってしまうのも事実だろう。(ここらへん、原作あってのドラマ、というところか)
この、いろんな意味で「ダメ」な主人公の歩みの遅さは、同時に作者の、クラシック音楽という長い歴史をもつ対象に対する敬意そのものであると思うからだ。

歴史ある、たくさんの人たちが愛する素材を描くためには、この場合の私の論旨にあわせる僭越を許してもらえるなら、それだけですなわち「きわめて骨が太くする」必要があるのだろう。

骨が太ければ、肉も厚くなければならないだろう。食傷しないためには丁寧に育てて、おいしい肉にしないといけないだろう。

と。

まあ、ほんとうに長くなりすぎたが、こういう感じで「構成とストーリー」の関係は「骨と肉」で説明できるのではないかと思った次第。

もちろん、いくら述べ立てても、この「道具」をつかった実作ができなければ意味がないので、まあぼちぼちやっていきまっさ。
これが私のおしごとです | - | -

つくる前に明確にしておくべきこと

編集さんと打ち合わせ。
ここらへんは商業作家の利点で、もれなく同じ方向を向いて共同作業をしてくれるプロが話し合いに応じてくれる。
アマチュアだったら友人関係など、不確定な要素があり大変だろうし、そもそも「自分の」作品について、おなじ「もっと良くしよう」という方向を向いて動いてくれる人の確保は難しいのではないだろうか。
(逆に言えば、そういう人間を得た人は、無理にプロの編集者についてもらう必要はないだろう)

まあそれはともかく、自分で言うのもなんだが、ずいぶん実りある話ができた。
熱心なうちあわせというのはままあることだが、ここまで迷いなく進める状態になったのははじめてではないだろうか。

(生み出されたものは確実に「此処」にあるので)なされたことはなんだろうと考え直してみる。
なんといったら適切だろうか。
現時点での問題点の総まくりと、それにたいする対策について話し合い、そして根本的なところ−−我々はなんためにこの物語をつくろうとしているか、そしてどういう手段をもってその目的を達成するべきであるか−−について、具体例をまじえて確認しあった。

実に熱がはいる。

なにを、どうするか。

なんどもくりかえし表現をかえつつも、お互いの目指すところは一致したままぶれない。
ドラマツルギーに関するアプローチについて、基礎としている考え方が同じであるので、
「そうそう、そうなんだよ」
「それなんですよね。だからああなるわけで」
「こうだね。そしてこう、さらにこうだ!」
みたいに、怖いくらいいちいちお互いの言葉がはまっていくのだ。

よしやるぞ、と。

二人の間でかわされたなにがしかのものをつかって、うやむやっとしたなんやかやを形にするのだ。
これが私のおしごとです | - | -

「乳と卵」芥川賞受賞インタビュー     川上未映子

 第138回芥川賞を受賞された川上未映子さんの「乳と卵」を雑誌上で読んだ。非常に良い作品で、私の嗜好にも合っており、ゆえにとてもおもしろかった。特に描写にそこはかとなく流れるユーモア感覚みたいなものは、天性を感じますなあ。
 新人作家の純文学作品というのは書店でも手にとりづらいし、そもそも書店に並ばない、ゆえにインターネット書店で検索するわけもなく、という状況が私にはあるから、芥川賞というのはその設立当初からの役割をちゃんと果たしているよなあ、と思う。

 まあそれはそれとして、ここでわざわざメモをあげさせてもらうのは、川上未映子さんの受賞者インタビューについてである。
 現実によい作品を作り出し、さらに才能が十分にうかがわれ、インタビューのなかからその聡明さと生活者としての安定感が感じられる作家の言葉、として読むと、実に興味深い発言があったのだ。

 インタビュー中、記者の「今後、どういう作品を書いていきたいですか」という定番の問いに、社会学者の宮台真司氏の「今なぜ若い子にケータイ小説が受けるのか」についての見解を引用して述べているのだが、そこに私的に「おっ」と感じた発言があった。
 インタビュー記事からそのまま書き写すと、

『(前略)〜、彼女たちの人付き合いが刹那的だからだというんですね。彼女たちは週替わりで相手を変える。でも、それはすれっからしだからではなく、ピュアすぎて傷つくことが怖いから、問題が起きたらすぐ別れてしまうんだと。ケータイ小説もそういう乗りなんですよ。「強姦された! 頑張れよと言われた。だから頑張る」みたいな(笑)。わかりやすいといえばわかりやすいけど、彼女たちはそういう表現にしかシンパシーを持てない。純文学が扱うような深い人間関係を照らす文章は、傷つくからアクセスできないんだそうです。傷つくことが本当に怖いんですね。〜(後略)』
 というもの。

 この問題意識に対しての川上さんの(少なくとも現時点での)答えは、

「出来ないわけがないですよね。実際、村上春樹さんは出来ている。」

 なんである。

 この発言は前後の文脈からして、「村上春樹のような作家になりたい」という意味だけにとるのは、少し違うんじゃないかと思いました。

 むしろ、

「私は”深い人間関係を照らす文章”で”彼女たち”に気持ちを伝えてみせる」

 という心意気そのものなんじゃないだろうか。

 そうだとしたら、すばらしく凛々しく力強い姿勢だよなあ。

”やろう。なぜならそれは不可能ではないから”

 読者である”ケータイ小説を読むひとたち”をあなどって、上から見下ろして、理解しようとさえせず、なんならその形式だけ真似てやろうか、なんてニュアンスがひしひしと伝わるような発言を繰り返す、一部出版業界の人間には耳の痛い話ではないだろうか。
 
「誰にでも伝わるテーマと書き方をしながら、読み終えたときには必ず読者の目盛りを三ミリ上げてくれる」作品。

 一読者として期待せずにはおられません。

JUGEMテーマ:読書


感想群 | - | -

構成の威力

 設定をじゃっかん変えてもヨイということなので、プロットの練り直しを
やっている。
 ウィークポイントを見つけたので、基本やりなおしだ。だがいい機会だ。
 先月、先々月と本業がやたらといそがしいなか、時間をつくって
ドラマツルギー的な勉強と実習を重ねた甲斐あって、自分で言うのも
なんだが、きれいにできる。適度にほころびもある。つまりのびしろが
ありそうである。

 要衝である「ドラマになっている」という部分で、さほど苦労せず
形にすることが出来る。
 非常に有名な作劇法のうち、二種の構成法を採用したのだが、これが
使える使える。これがあれば、白い紙の前で呆然とすることも、ネタをさが
しに放浪することも、「ありえないこと」なのだとわかる。
 よほど忙しすぎるかなにかして体調を崩したとか、そういう明らかな
障害がないかぎり、「物語は作れて当たり前」なのだということが
非常によくわかる。

 会社で働き、時間をつくり、ぴたりとすわれば仕事が進む。
 ハコを書き、パラダイムをつくり、こまかなつくりこみをしていく。

 やはり、物語作りというのはステップワークだ。
 ひらめきで時間軸のある展開するドラマはつくれない。そんなのは
物語作りのごく一部分でしかない。

 この作り込みは、非常に楽しい。
 昨日習得したことが、今日生かせる。
 長い間なにもわからず、粗悪品をつくっていたが、最近は、
「なるほど客前に出すモノとはこうしてつくるのか」と得心する
ようなことが多い。

 もっと基礎をちゃんとやろう。
 奇抜なもの、奇矯なもの、趣味丸出しのもの、自己顕示欲がうる
さいものはとりあえずおいといて、技術の結晶のようなものをつくりたい。

 それはスタンダードで、ベイシックな、力強いものとなるにちがいない。
これが私のおしごとです | comments(2) | trackbacks(0)

のだめカンタービレ 19巻   二ノ宮知子

 今さらながら、といわれるかも知れないが、改めて「峰 龍太郎」という
キャラクターのもっている力に感じ入りましたよ。

 二ノ宮知子作品には、「バカだけれども明るく、めげない」
男性脇役キャラクターの系譜があるが、「峰」は出色。

 出てくるだけで、物語を明るく、力強い方向へひっぱっていける。

 いや、もちろん「そういう方向に物語がいこうとするから、峰が
出てくる」というのが、作劇上では実際の話っていうやつなんだ
ろうけれど、一読者としては、やはり「こいつがやってくれる!」
みたいに感じられるんですな。

 ちょうど、台本通りにしゃべっているだけなのに、舞台の役者自身に、
観客はどうしても惹かれてしまうように。

 フランス編で、主人公千秋をはじめとした、それぞれがかかえる屈託
や不安、迷いなどすべての負の感情に対して、峰の登場が予告されたとたん、
読む側はまるで作者が、

「さあ、それじゃあそいつらふっ飛ばしに行こうか!」

 というキューをふったかのように感じられる。

 峰をみていると、私がもっている「狂言回し」という言葉から連想する
その役割とイメージの貧困さについて、非常に反省させれらますね。
 なんというか、昔ながらの「皮肉屋の道化師」みたいな、ステロタイプ
のものは、「違う」んだ。というか、「そうじゃいけない」んだ。

 なんというかな。主人公を動かし切れなくなったときに出てくる、
サポートというのじゃいけないんだな、と。つじつまあわせの中継ぎじゃ
ないんだな、と。

 むしろ、狂言回し役をどんな性格付けにするかによって、物語の
質というか、雰囲気、力、ニュアンス、そんなものが左右されるんじゃ
ないかというか。

 主人公たちがドラマをつくるのなら、狂言回しは物語の「印象」を
形作る。そんな気がしたので、書いておいたのであった。では。
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