頭から蒸気の記

★注意★ ネタバレありが基本です。 ご注意ください。

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -

荒川アンダーザブリッジ・中村光の美しい「めくり」の技術

「聖☆おにいさん」でブレイク中の中村光さんだが、「荒川アンダーザブリッジ」
も相当おもしろい。

なかでも私がほんろうされてしまったのがいわゆる「めくり」の技術。
マンガの技法上、見開き左側の最終コマは次のページを「めくらせる」ために
「期待をもたせる」「秘密をほのめかす」「オチの前ふりをする」などの
効果をもたせるそうなのだが、これが実にうまい。

この「めくり」はTVドラマなどでのCM前に当たると思うのだが、
一時間もののTVドラマならオープニングあけを含めて多くて四回ほどで
あるのに対して、マンガの場合は20ページ掲載で9回ほど「めくら」
せなくてはならない。

しかしこれはあくまで理想で、シナリオにしてペラ10枚ほどもないで
あろうマンガで、そんなにたくさんのフリ・ヒキをつくるのは非常にむずかしい
だろうことは想像に難くない。
私の読書実感でいうと、「めくり」の技術を効果的につかっているのは
ストーリーマンガで一掲載で多くて5〜6回であろうか。(シナリオにあらわれるベース)

そして「荒川アンダーザブリッジ」である。
基本的にギャグマンガなので、もちろんフリ→オチは基本なのであるが、大きめの
ギャグを(たとえば)20枚の原稿で10個いれるとなると、ひねりだすだけでも
相当むずかしい。
しかもメインストーリーがちゃんとあるギャグマンガだから、それらのギャグを
プロットからはずれないよう、いやむしろプロットをすすめるように配置しなくて
はならない。

以前も「笑わせながらその隙にストーリーを進める」技法について書いたが、
ギャグの量と、それらが律儀に「めくり」という基本技術を踏んでいるという
質の面において、本作は秀逸である。

しかもこの「ギャグをかましながらストーリーを進める」場合と、
「単に前ふり→オチという純粋なギャグ」がおりまぜられていることによって、
「荒川アンダーザブリッジ」は読者である私たちに別の「めくり」の楽しみを
与えてくれる。

つまり、「次のページで、笑わせてくれるのか? 泣かせるようなドラマ展開を
してくれるのか?」と予想する喜びである。

しんみりさせる展開で、実はそれは単なる前ふり→予想を裏切って笑わせる、
というのは、一般的な笑いの手法だ。
しかし逆に、「これは前ふりだからギャグだ。どんなオチだろう?」と思わせて
おいて、胸の奥にひびくような一言が待っている。

これは実に効果的だ。
こちらは笑う気まんまんであるところへ、ぽろっと心の琴線にふれるようなセリフ
がとびだす。ふいをつかれるったらない。
まあ、反則だといえそうなくらいの不意打ちだ。
しかも、読者は「めくって」みなければ「笑いか、泣きか」がわからない。

まさにマンガならではの「めくり」の真骨頂だと思う。
感想群 | - | -

クジラの彼   有川 浩

 自衛隊を素材にした短編恋愛小説集。

 この作品集で有川浩作品をはじめて読んだのだが、評判通りのおもしろさはもちろんだが、ひとつ学んだことがある。恋愛小説についての認識みたいなもの、についてだ。

 恋愛物語とは、男女(もしくは同性)の恋愛感情模様を描いたもの、だと思っていた。
 しかしそれは同義反復でしかなく、すくなくとも実際に書いたりする上で「役に立つ」認識ではない。

 だいたい、ひとくちに恋愛物語といったって、身悶えするほど引き込まれるものもあれば、ばからしくて読んでられないものもあるし、単純に退屈でしかないものだってたくさんある。
 では、それらの違いはなんなのだろうか?

 たとえば、歴史小説なら、「このなにがしという侍の生き様を通して、○○○(抽象的なテーマ)について描きたい」ということを、普通、考える。
 けれど、私は「恋愛小説」の場合については、そういう考え方をしたことがなかった。そしておそらくそれは間違っている。
 恋愛小説だって、「なんとかかんとかを通して、○○○(抽象的なテーマ)について描く」という発想をするべきなんだろう。

 その論法で言えば、多くの恋愛小説は、「男女(もしくは同性)の恋愛模様を通じて、『愛』もしくは『恋』について描」いているといえるだろう。が、おそらくそれだけでは不十分だ。いや、不十分というより、それだと「で、それを書けたの?」と自問自答するとき、非常に不安な気持ちにならざるをえないのではないか。
 その理由は恋愛が普遍的なテーマであるからだけではない。はじめの方に書いた例と同じ、認識が同義反復の無意味さから抜け出しきっていないからだ。




 本作品群では、男女の恋愛を通じて、「誠実さとはなにか」ということが描かれている。
 自衛隊という、現代日本で一番身近な軍隊組織が舞台になっていることで、そのことが非常に明確に(私には)感じられたのだ。

 もちろん、誠実さを描き出すためには不実を書かなくてはならないだろうし、誠実でありたいと思う気持ちを邪魔する迷いや不安といった心情的な障害、ロミオとジュリエットのような物理的・状況的障害も描かれなければいけないだろう。そのためには実際に主人公たちが揺れなければ、物語にはならない。
 しかし、「軸」ははずしたらダメだ。

 できうるなら誠実でありたい。
 誠実に対しては誠実で応えたい、応えられたい。

 そんな願いがなかなかかなえられず、いや、むしろほとんど叶わないのが恋愛の現場だろう。
 だからこそよくできた恋愛物語の主人公たちは、「誠実」を軸にして物語を編む。
 嘘も裏切りも、手練手管も権謀術策も、原因をひもとけば誠実であろうとする強い願いにいきつく。

 と、まあそんな感じで書けば、ええ感じの恋愛小説になるんじゃないっしょうかねえ? と思いましたわけなんですよ。

JUGEMテーマ:読書


感想群 | - | -

「乳と卵」芥川賞受賞インタビュー     川上未映子

 第138回芥川賞を受賞された川上未映子さんの「乳と卵」を雑誌上で読んだ。非常に良い作品で、私の嗜好にも合っており、ゆえにとてもおもしろかった。特に描写にそこはかとなく流れるユーモア感覚みたいなものは、天性を感じますなあ。
 新人作家の純文学作品というのは書店でも手にとりづらいし、そもそも書店に並ばない、ゆえにインターネット書店で検索するわけもなく、という状況が私にはあるから、芥川賞というのはその設立当初からの役割をちゃんと果たしているよなあ、と思う。

 まあそれはそれとして、ここでわざわざメモをあげさせてもらうのは、川上未映子さんの受賞者インタビューについてである。
 現実によい作品を作り出し、さらに才能が十分にうかがわれ、インタビューのなかからその聡明さと生活者としての安定感が感じられる作家の言葉、として読むと、実に興味深い発言があったのだ。

 インタビュー中、記者の「今後、どういう作品を書いていきたいですか」という定番の問いに、社会学者の宮台真司氏の「今なぜ若い子にケータイ小説が受けるのか」についての見解を引用して述べているのだが、そこに私的に「おっ」と感じた発言があった。
 インタビュー記事からそのまま書き写すと、

『(前略)〜、彼女たちの人付き合いが刹那的だからだというんですね。彼女たちは週替わりで相手を変える。でも、それはすれっからしだからではなく、ピュアすぎて傷つくことが怖いから、問題が起きたらすぐ別れてしまうんだと。ケータイ小説もそういう乗りなんですよ。「強姦された! 頑張れよと言われた。だから頑張る」みたいな(笑)。わかりやすいといえばわかりやすいけど、彼女たちはそういう表現にしかシンパシーを持てない。純文学が扱うような深い人間関係を照らす文章は、傷つくからアクセスできないんだそうです。傷つくことが本当に怖いんですね。〜(後略)』
 というもの。

 この問題意識に対しての川上さんの(少なくとも現時点での)答えは、

「出来ないわけがないですよね。実際、村上春樹さんは出来ている。」

 なんである。

 この発言は前後の文脈からして、「村上春樹のような作家になりたい」という意味だけにとるのは、少し違うんじゃないかと思いました。

 むしろ、

「私は”深い人間関係を照らす文章”で”彼女たち”に気持ちを伝えてみせる」

 という心意気そのものなんじゃないだろうか。

 そうだとしたら、すばらしく凛々しく力強い姿勢だよなあ。

”やろう。なぜならそれは不可能ではないから”

 読者である”ケータイ小説を読むひとたち”をあなどって、上から見下ろして、理解しようとさえせず、なんならその形式だけ真似てやろうか、なんてニュアンスがひしひしと伝わるような発言を繰り返す、一部出版業界の人間には耳の痛い話ではないだろうか。
 
「誰にでも伝わるテーマと書き方をしながら、読み終えたときには必ず読者の目盛りを三ミリ上げてくれる」作品。

 一読者として期待せずにはおられません。

JUGEMテーマ:読書


感想群 | - | -

のだめカンタービレ 19巻   二ノ宮知子

 今さらながら、といわれるかも知れないが、改めて「峰 龍太郎」という
キャラクターのもっている力に感じ入りましたよ。

 二ノ宮知子作品には、「バカだけれども明るく、めげない」
男性脇役キャラクターの系譜があるが、「峰」は出色。

 出てくるだけで、物語を明るく、力強い方向へひっぱっていける。

 いや、もちろん「そういう方向に物語がいこうとするから、峰が
出てくる」というのが、作劇上では実際の話っていうやつなんだ
ろうけれど、一読者としては、やはり「こいつがやってくれる!」
みたいに感じられるんですな。

 ちょうど、台本通りにしゃべっているだけなのに、舞台の役者自身に、
観客はどうしても惹かれてしまうように。

 フランス編で、主人公千秋をはじめとした、それぞれがかかえる屈託
や不安、迷いなどすべての負の感情に対して、峰の登場が予告されたとたん、
読む側はまるで作者が、

「さあ、それじゃあそいつらふっ飛ばしに行こうか!」

 というキューをふったかのように感じられる。

 峰をみていると、私がもっている「狂言回し」という言葉から連想する
その役割とイメージの貧困さについて、非常に反省させれらますね。
 なんというか、昔ながらの「皮肉屋の道化師」みたいな、ステロタイプ
のものは、「違う」んだ。というか、「そうじゃいけない」んだ。

 なんというかな。主人公を動かし切れなくなったときに出てくる、
サポートというのじゃいけないんだな、と。つじつまあわせの中継ぎじゃ
ないんだな、と。

 むしろ、狂言回し役をどんな性格付けにするかによって、物語の
質というか、雰囲気、力、ニュアンス、そんなものが左右されるんじゃ
ないかというか。

 主人公たちがドラマをつくるのなら、狂言回しは物語の「印象」を
形作る。そんな気がしたので、書いておいたのであった。では。
感想群 | comments(0) | trackbacks(0)

【再録】なぜ私は川上弘美にびくびくしているのか

 川上弘美作品について私は、「ていねいで緻密」という印象をもっている。
 そういう表現ではくくれない作品も多くあるが、私の感想はそうだ。

 というようなことを書こうとしていたのだが、どうも筆が進まない。躊躇がある。なぜだ。なんだろう、この、語れば語るほど、語る己が馬鹿に見えてくるような恐怖感は。いまさら己の馬鹿を否定するほど馬鹿ではないはずなのに。
 そう考えながら作品群周辺を逡巡していたら、思い当たることがあった。

「豆腐屋への旅」だ。

「豆腐屋への旅」で私は豪快にすっころばされた。いや、自ら転んで大いに痛い思いをしたのだ。

「豆腐屋への旅」は川上氏のエッセイの一編で、「あるようなないような」に収録されている。最近買った本ではないので、最近ではない時期に読んだのだろう。
 ただし、そのインパクトは忘れがたい。

 エッセイ冒頭で、川上氏は「旅とはなんたるか」について意見を表明する。旅の形態はさまざまである。であるから、「豆腐屋への旅」も「ずいぶんたいしたもの」である、と述べる。

 ほほう。なるほど。まあよろしい。

 読者の特権で高飛車に読み進めるわたし。

 川上氏は電車に乗る。三十分ほどだ。

「また散歩か」

 私は思う。そして結局飲みにいくのか。いやいかないのか。などという点に注目してしまう私。

 「恒例だ」と感じつつも、ていねいな筆致に導かれて私は川上氏の散歩の様子を見聞きする。そしてしかし、エッセイはそのまま終わってしまう。

「えっ? 」

 いかないのか。

 豆腐屋にはいかないのか。

 それはアリなのか。「結局豆腐屋にはいかなかった」というオチらしい言葉もなしか。

 あわてて読み直す。しかしやはり豆腐屋にはいかない。立ち寄った様子もない。

 どうしてだ。「うっかり」か? いやそれはない。川上作品はエッセイといえど緻密だ。論理も構成もたしかだ。そのはずだ。

 「あざといことをされたのか」と、私は次の間に思った。善良そうな散歩は罠だったのか。豆腐屋を使ったトリックか。吃驚させられたまま逃げられたのか。

 疑心暗鬼にとりつかれ、血眼になって一語一語、ていねいに読み直す。そうしてやっと気づいた。

 川上先生はそもそも、このエッセイで「豆腐屋への旅」そのものについて書く、とはいっていない。「豆腐屋への旅の類」について述べる、とおっしゃっているのだ。「類」だ。「のようなものを」と例示しているだけだ。

 私が「類」を読み飛ばしてしまっただけだ。不注意だ。こちらこそ「うっかり」だ。

 おまけに、初出一覧に、このエッセイは日本交通公社出版事業局の『旅』に掲載されたものだとある。ようするに、旅がテーマのエッセイの注文を受けて、そのつもりでこれからちょっとした外出のことを書きますが、これも私は旅だと思っているんですよ。だからそのつもりでよろしく。

 そういう挨拶文めいたものを、私が誤読したまでなのだ。




 まあそういうわけで。

 しかしあれですな。

 どうもその。

 やはり私は語らないほうがよろしいようなんですな。
感想群 | comments(0) | trackbacks(0)

【再録】東京タワー オカンとボクと、時々、オトン (映画版)

 役者が凄まじいまでに良い。
 目を見張りますよほんと。
 スクリーンで観る、というのは、迫力あるアクションシーンを観るためでもあり、壮大な風景を一望のものとするためでもあるんだろうけれども、演技をつぶさにとらえるためでもあるのだということを、久しぶりに思い出させてもらった。
 現実に居るはずの人間の、実際にあったはずの瞬間を写し取る映画という技術の結晶だ。

 ご承知のとおり涙なしには観ておれないような話なんだけれども、映されているのが確かに生きている人間だということが、何よりの救いのような気がする。
 「実写」っていう言葉を、非常に肯定的にとらえることができる。

 原作があって、監督がいて、シナリオがあって、役者がいて、スタッフたちがいて・・・・そういう「人々の力」が感じられた。敬意をもってスタッフロールを最後まで逐一みていましたね。
 「あーこの映画をつくったのはこの人たちなのかあ・・・」って。
 メイキングのスタッフも載っていて、DVD出たらメイキング目当てに買おうかなとかも思って。
 この映画どうやって撮られたんだろう? 現場の雰囲気はどんなのだったんだろう? 少しでも感じ取りたいような気分。(逆にNGシーンとかはみたくないかも)

 松岡監督、夏の緑好きなんだろうなあ。「バタアシ金魚」思い出した。
 
 原作を生かし、かつ損なわず、っという松尾スズキの名シナリオ。そういうことって「出来る」んだねえ。「無理なこと」だと思っていた。

 観て良かった。
感想群 | comments(0) | trackbacks(0)

夜は短し歩けよ乙女    森見登美彦

幸福な読書であった。そういうより他にない。

我ながら、もうちょっとなんとか言えんのかいとは思う。
この小説の魅力を、読者の立場から伝えうる、素敵な言葉はないものか。
実際他の言葉を探してはみたのだ。
けれど見つからなかった。

もしかしたら、もう少し待てば何か浮かぶかも知れない。
でも、川上弘美の「センセイの鞄」を読んだときも同じようで、結局いまだに何も浮かばず。

だけれども何かいいたい。コメントしたい。

というわけで、結局冒頭句に落ち着いてしまった。

(あえていうなら、「読みながら、自分の気持ちが満ちていくのがわかった」かな?
ただの紙にインクのしみがついているだけの物質なのに、それが生きている人間様の自分のこころみたいな部分に、ぐわんぐわんと何かを与えてくれているのがわかった。)


そういうような状態だから、以下ぐだぐだとまとまりのない雑想を続けるが、もし未読の方がおられたら、ここらでウインドウを閉じていただきたい。

別にネタバレだとかそういう堅苦しいことをいうわけではなく、(そもそもそんなたいそうな志のあるブログでもないが)、なんだかそうしたほうがいいように思える。

私の読者としての勘がそう告げているのだ。


そういうことで以下、よろしくお願いしたい。


--------------------------------

本書を読むにあたって、私はそうとう逡巡していた。
読みたくないわけはない。
評判も、評価も、そしてなにより私の読み手としての勘からして、「読むべきだ」という点においては、満場一致で採決がなされている。

ただ、いつ読むか。
どんなとき、どんな体調で、どのくらいの期待度で、そしてどんな必然性をもって読むか。

登り調子の若い作家の作品で、山本周五郎賞授賞、そして本屋大賞は「一瞬の風になれ」と票を分け合う形での2位。「読めなくなる」ことは、まあ考えられない。その懸念はない。

期待が裏切られることもあるまい。
万が一そうなったとしたら、きっと読み手のオレが何か下手を打ったに違いないってことだ、というくらいには腹をくくっていた。

逆に言えばつまり、本作に対して自分の心の中のハードルを上げるだけ上げていたともいえる。

「じゃあ読むか」

そう思ったのが一昨日のこと。
(そこらへんの些末な私の心の動きなんぞは余計なことなので書かない)

思った通り、読んでは戻り、いくらか進んではまた戻りという、私の「堪能型読書」のパターンに自然に入れた。
(一気に読んでもおもしろかろうが、私がこういう作品を読むときには、この方法が性に合っているのだ)

そして、本作は私が上げるだけあげていたハードルを、軽々と越えてみせた。

もう、本当はこんなべたべたな文句を並べたくはないのだが、笑って、泣いて、感動してしまった。

本の残りページ数が少なくなるにつれ、別れがたく、ますます行きつ戻りつを繰り返し、なんとかもっと長く読み続ける方法はないかと苦心惨憺し、しかし物理的物体である書籍のページ数が突然増えたりするわけもなく、結局読み切ってしまった。

そして、二度とこない初読の余韻を、しみじみと味わい尽くした。

(・・・・・あーもう、書いていて恥ずかしいじゃないか)


森見登美彦のデビュー作は、いわずとしれたファンタジーノベル大賞の「太陽の塔」。
私の知己のさる読書家とこの本の話をしたことがある。
彼は私の、「これ、青春小説といえますよね」という問いかけには直接答えず、

「この作品をファンタジーノベル大賞に応募した著者の見識は高い」

といった。

作品のジャンル分けだとか、著者の自分の資質についての把握の仕方などというケチくさいことはいわず、「見識が高い」と。

「夜は短し〜」を読んで、その知己のコメントは、古風な言い回しだが、正しい言葉遣いだったのだと、あらためて感じ入った。

それに比べて私はというと、実際このブログでも書いたように(再録しました)、「太陽の塔」は本作とは別の意味でコメントが難しく、気に入ってしまった割には誰にでもわかるような、距離をおいたうわっつらの部分を述べただけである。

だって、本当に「コイツすごいぞ」と勘が告げる声が大きすぎて、頭がフリーズしちゃったんだもの。
確かにいえる部分は、そこだけだったんだもの。
私の読書家としての「読む力」なんてそんなもんなんだもの。

ああもう、それにしてもだ。
まさか本当に「飛ぶ」なんてなあ。
21世紀の、現代社会を舞台にした小説で、ほんとにほんとの意味で飛びやがるとは思いもつかなかった。

いや、正直にいおう。

そんなこと小説で出来るわけないと思っていたからこそ、はからずも落涙してしまったのだ。

小説はすごい。
もちろん森見さんもすごい。

だってさ、すでにこの世の中には宮崎駿というアニメーション映画監督が存在して、数々の名作をモノにしているんですよ?
そりゃあ「才能」という意味では、森見登美彦氏は宮崎駿に勝るとも劣らないものをもっているかもしれない。

でもさ、俺が思わず連想してしまった、たとえば「千と千尋の神隠し」なんてさ、巨大な資本が名門スタジオに投下されて、大勢の優秀なスタッフを動かしうる、監督兼制作進行ができる天才がつくったわけですよ。

それをだ。
京都で机に向かって呻吟しながら一文字一文字原稿のマス目を埋めている(たぶん)30前の男がさ、つくっちゃったわけですよ。
そんなシーンをね。ちゃんと。世界に冠たる大監督がつくったものに勝るとも劣らない、そしてオリジナルな名シーンを。

もちろん私が今使った「飛ぶ」という言葉は、比喩だとかイメージだとか現実と夢想だとか爽快感だとか、演出上のテクニックだとかそういう創作の一切合切を含めた意味で使われる、「飛ぶ」だ。

「ほんとに飛びやがった」

とあっけにとられながら上空を見上げるという意味での「飛ぶ」なんですよ。

あれですよ。
しょっぱなから摩訶不思議だけれども現実とは着実に交錯している物語からはじめられてですよ、そしてさまざまな布石を打ちつつ読み手を楽しませながらですよ、「もういいです。これ以上は望みません。どんなラストでも甘んじて受け入れます。でもきっと面白いんでしょうね?」みたいなことを思っている読み手(俺だ)にですよ、つきつけちゃったんですよねえ。

参るわ。

もちろん、面白く感激するところは他にも山盛りある。
いやもう、そんなところばっかりだ!
面白くないところを見つけるのが難しいぞ! もっともそんなことしないけど!

ほんとうにまあ、いやあ、もうなんて言ったらいいんだろう?
なんかいい言葉はないもんかなあ。

あれ?

なくてもいいのか。

だって私の目の前には、本があるもの。
手触りも質感も現実として感じられる、紙にインクがついた物体が、ここにあるんだもの。

そしてタイトルには堂々と、

「夜は短し歩けよ乙女」

とある。

これ以上、何を望めばいいのか? っちゅう話ですよ。



「ないよね?」ってことで、雑想はおしまい。じゃ。
感想群 | comments(0) | trackbacks(0)

【再録】オフィス北極星     真刈信二・中山昌亮

 古いマンガで恐縮ですが、「オフィス北極星」を再読。
 90年代のアメリカを舞台にした、日本人リスクコンサルタントの物語。
 シビアな訴訟社会の現実が描かれるなかで、要所要所ではさみこまれている「人間の心意気」のようなものが物語を大きく左右する。そこがまた泣けるんだ。

 米国にほんのわずか「缶切り」を輸出していたため、悪徳弁護士たちの罠にはまってしまう日本の小さな町工場のオヤジ。(この風采のあがらない男の職人気質が実にいい)。また、父親のためにアメリカでその「缶切り」を唯一扱う小さな店の老人に、つたないながらも英語の手紙を書き、助力を求めた娘。

 ひとつ間違うと露骨なお涙ちょうだいになってしまうエピソードだが、べとつくような無駄な演出は排除されており、ストレートな誠意だけが伝わってくる。

 日本人の例ばかりになるが、グリーンカードや保険、貧困などの問題で医療を受けにくい人々のため、制度や法律を犯してでも医療行為を続ける医師。そんな人間、いくらなんでもありえないだろう、と一瞬は思ってしまうのだが、なぜだかひきこまれてしまう。ストーリーが進むにつれて、「こんな人間が居て欲しい」という、読み手としての自分の願いが押さえきれなくなって、彼らに無慈悲な法の裁きがくだされることに我慢できなくなる。

 そういう、ある意味現実離れしているとさえいえるほど高潔な彼らを、文字通り「リスク」から守ってみせるのが、主人公・時田と個性的なパートナーたちだ。
 時田は一筋縄ではいかない、一種の変人として描写されており、人物像として実に深みがある。物語の成功は、おそらくこの男の魅力と力強さに相当、負っている。ロジカルに展開せざるを得ない法廷モノのとっつきにくさも、彼がカバーしている。それは確かだ。しかし、もうひとつ感じたことがあった。

 実はこのマンガを読む前日、名作と呼ばれている推理小説を読んだ。
 面白い。一気に読める。実に論理的で見事な構成と展開だ。
 だが、なにか満たされない。なぜだろう? と思っていた。

 たぶん、合理的すぎたのだ、と今は思う。
 正しい論理、隙のない設定。
 それは大切。それがないと物語は成立しない。

 だが、それらはあくまで道具である。なにかを描き出すため、読者をしらけさせないよう、最新の注意を払って「らしく」見せようとするための技術。
 
 それらを使って「何」を描くのか。そこが問題だ。

 時田のような主人公? いや、彼ならあの推理物の探偵役だって務まるだろう。

 ならば、とさらに考える。

 意外に、そのまま描くと薄ら寒くなってしまうほど高潔な、脇役たちの「心意気」そのものではないだろうか。

 なんか、夏目漱石と自然主義一派の論争で、似たようなことをいっていたよな、などと思い出しつつ筆を置くなり。
感想群 | comments(0) | trackbacks(0)

【再録】太陽の塔     森見登美彦

 強烈な人物設定と前衛的ともいえる文章。
 「一般的な小説」とは明確に差異化された本作は、いかにもファンタジーノベル大賞らしい。

 私がその中でもっとも注目したのは、冒頭と結語。

 テーマをそのまんま書いてしまっている。

 まあ、テーマといってもいろいろな見方があるが、シド・フィールドはシナリオワーク用の本で、たとえば「レイダース」のテーマは「考古学者が、何世紀もの間失われていた有名な文書と聖柩を取り戻す」というふうに簡潔に書ける、としている。しかしそれはあくまで書き手側が指針を見失わないためにメモしておくもので、受け手には決して率直に述べてはいけないたぐいのことだ。一般的には。

 しかしそれを書いている。

 ようするに、本作を素直にこう読んでしまっても全然構わない。

 「この小説は、”冒頭句のような主張をもっていた主人公が、結語のような考えにかわっていくまでの過程の物語”です」

 もちろん、他の読み方や感じ方もできるし、むしろ好き嫌いを含めて多様な意見がでそうな作品である。

 もしかすると、だからこそこういう手法をつかって、物語の明確な軸をひとつ提供しておいたのかもしれない。そうも思った。

*感想、というには少々分析的すぎるかもしれない。
-----
感想群 | comments(0) | trackbacks(0)

【再録】大東京トイボックス(1)  うめ(小沢高広、妹尾朝子)

 結論をいう。
 手放しでもちあげたい。

 誇張表現ではなく、ほんとうに一コマ一コマ、すみずみまであじわいながら、文字通りのめり込んで読んだ。
 それだけ期待も大きかったということなのだが、私の予想をはるかに超えて面白く、読み応えがあった。

 発売は一昨日(2007年3月)。もう何度も読み返した。それでもまだ読みたいと思う。それぐらい素晴らしい。

 私はゲームをしない。だからこのマンガの舞台であるゲーム業界についてはまったく無知だ。アニメや特撮のネタが多数でてくるのだが(そうだとかいてあるのだが)、正直なところまったくついていけない。わからない。
 それでも、そんな私個人の事情は、この作品については読む上ではまったく障害にならない。知識の有無ではなく、描かれ方に説得力があり、「きっとこうなのだな」と思わせるだけの表現力がある。そしてなにより、語るべきことへの確かな手応えを感じとることが出来る。

 この「うめ」という漫画家さん(たち)、「ちゃぶだいケンタ」にしろ、「東京トイボックス」にしろ、連載時、いい感じで盛り上がってきたところで、(私にとっては)釈然としない打ち切りという憂き目にあってきた。

 しかしその度、飛躍的に腕を上げ、私の前にあらわれてくれる。

 その不死身っぷり。

 期待をするなというほうが無理なのだ。
感想群 | comments(0) | trackbacks(0)