頭から蒸気の記

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物語は骨と肉だ、と考えることも出来る

 粛々と実作業を進めている。外から見ると遅いと見えるかも知れないが、結構がんばっている。ほんとうだウソじゃない。
 そんな中、明確にしておきたい考え方がまとまったので、書いておこうと思う。

 シナリオなどでは構成とストーリー(プロット・キャラクター・アクション・エピソードetc)の関係性を「コーヒーカップとその中身」にたとえられることがあるが、自分的には「骨と肉だよなあ、その方がピンとくるなあ」と思ったので。

雑駁に結論だけ述べておくと、
「構成は骨太でシンプル、わかりやすいものにこしたことはない。
 しっかりと構成しておけば、ストーリーは安心して”面白くできる”
 芸を駆使して、各シーンやシークエンス中で受け手を楽しませるのに専念できる。
 受け手が味わうのは肉の味なのだから、そのようにして物語(牛・豚・鶏など家畜類のイメージ)を育てるべきだ」
という、物語作りの方法についての比喩である。

 これは私がわかりやすければよいのだが、書いているうちにえてしてこのような感覚は忘れさられてしまうものだ。だから例をあげつつ、いつでもこの考えに戻れるようにメモしておくのである。

 その前に、ドラマツルギーだとかなんだとかの基本的な(私の)考え方をさらっておこう。
 私が作らなければいけないのは、
 「劇的な文脈」によって構成される「ドラマのある物語」である。
 素材は現実にあることでも、虚構でもかまわない。いずれにしろ魅力的な素材を、ドラマティック・コンテクストに従って並べなければドラマにはならず、物語にもなりにくい。
 そのためにはまず、構成が明確にされていなければならない。
 物語を作っているうちに、いつのまにかゆらいでしまいがちなアレである。
 そして結果わかりにくい、どこが山なのかどういうオチなのか、そもそも作り手は受け手をどうしたかったのか、が不明な、なんともいえない微妙な読後感をあたえてしまうという、例のアレを防ぐためによく指導を受けるヤツである。

 さてこれから未完・完結を問わず既存の作品を例に挙げて私のまとめた考えを記述していくが、もちろんそれらは作品の評論でも解釈でも、ましてや結末の予想でもなんでもない。これから私が使うべき道具について、明確に認識するために勝手に例としてあげさせてもらったものである。当該作品のファンの方がおられたら、このような使い方については、あくまで括弧付きの例示にすぎないことを理解していただければ幸いである。

 さて、それではとっとと要点を述べていこう。
 まずは構成とストーリーの相互関係をふくめた全体を述べる「テーマ」である。

 たとえば「のだめカンタービレ」なら、
「このマンガは、音楽についての物語です」ということができる。
「天才ファミリー・カンパニー」ならば「家族についての物語」だ。
「グラスホッパー」なら「復讐について」だ。

(いずれも、作品全体から受ける印象からは大なり小なり違和感があるだろう。当然だ。テーマから容易に内容が推測されるような作品は、おそらく受け手の興味を引くことはないだろうから)

 まずは短い作品からいこう。
 グラスホッパーの主人公は妻を非合法組織に殺された生真面目な男である。
 この非常に映画的なドラマは、主人公が遂げようとする復讐という目的(劇的欲求)がさまざまな障害にあって阻害され、ゆえに葛藤がうまれ、そしてなんやかやのうちに盛り上がって解決を迎えるという、非常にエンタテイメント性の高い、王道的な形をとっている。
 この主人公(「鈴木」という)がとる行動と反応(アクションとリアクション)がドラマを作り、進めていく。ゆえにこれが「骨」である。

 この「骨」の太さ具合は、奇想天外とも言えるさまざまな「殺し屋」たちが登場する中で、唯一「プロ」ではない「鈴木」が使った(奇しくも使うことになった)「殺しの方法」に象徴されるといえよう。

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 念のため書いておきますが、当ブログのページ頭にあるとおり、ここでは基本ネタバレありです。
 私は数行後に、「グラスホッパー」の結末を書きます。その点ご注意のうえ、皆さんの自己判断において適切な対処をしてくださいませ。
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 「鈴木」が結末近くで使用する武器、すなわち復讐の相手を殺すために使用した「武器」は「人間を殺さないこと」である。
 そしてこの「武器」は、なんと小説のほぼ冒頭で「使用」されているのだ。
 この構成を「骨太」といわずになんといおう。
 おまけに、「鈴木」はこれに類似した「武器」を使うことによって、ラスト近くで自らの身を守ることに成功している。もしこんなプロットをみせられたら、どんな編集者でもすぐに書いてくれと頭を下げに来るのではないだろうか。

 しかし、にもかかわらず読者が楽しむ「肉」は、忍法帳もかくもやという、さまざまな殺人者達の「対決」である。彼らの、まさに「増えすぎた昆虫たちが互いを食い合うかのごとき」エキサイティングな戦いぶりは、本小説のまさに「読みどころ」である。

 もちろん、伊坂先生が実際にどのような過程を経て本作を構成し、作り上げたかは、本論とはまったく別問題である。
 しかし仮定の話をすれば、この「鈴木」にまつわるドラマがなければ、異能者同士のアクションシーンが延々と続く作品となり、山があり、終わるべきところで結末を迎える、完成されたドラマ作品にはならない。言い方をかえれば、「鈴木案」が採用されなかったとしたら、別の「主人公」が設定されていたに違いない。

 かつての「いわゆるドラマ」と違い、今の物語市場では、「主人公」はかならずしも目立つ必要はなく、活躍する必然性もない。他の手段で物語を魅力的にする方法はたくさん開発されており、それを使った優秀な作品も多い。
 しかしここで忘れてはならないのは、どんな形であれ「主人公という要素」はドラマをつくるために不可欠であるという、当たり前の事実である。
 古典的なドラマツルギーからみれば邪道だが、主人公を軽んじても構わないし、うすくしてもいい。しかしすべての要素は主人公めがけて有機的につながっていなければならない。物語をドラマ形式にしたいのであれば、それは必要欠くべからざる仕事なのである。作る上でそこを意識しておかないと、受け手にこちらが意図したドラマが伝わらない危険性が格段に高くなる。
 もう一度書いておこう。ドラマとは、主人公のアクションとリアクションで「骨組みされる」ものだ。
(ここらへん、今の物語作り状況からすると、重要ではないかと思う)

 さて、次は「天才ファミリーカンパニー」だ。
 二ノ宮先生初の長期連載作品で、その構成力の高さを知らしめたヒット作である。
 この物語の主人公は天才的に頭脳が明晰で、アメリカへ行ってビジネスでの成功を収めたいという、これまたクラシックともいえる「劇的欲求」をもっている。
 そしてこれもまた王道的に、理性と知性を重んじる主人公の対立概念として、優秀であるがのんきでおおらかな「弟」が登場する。
 その対比を描き出しながら、主人公のドラマ上の目的が母の失業という事件において決定的に阻害されることで、三幕構成における「設定」にあたる、第一幕が終わる。
 第一幕の設定によって、第二幕で主人公は、自らの劇的欲求(世界でビジネスマンとして成功すること)を成し遂げるために、「家族」や「友人」、「恋愛」といった、今まで軽視してきた「情緒的な」ことどもを「解決」していかなければならない。
 つまり主人公にとっての障害は、この段階で「人間関係」そのものとなる。
 それまでクールに割り切ることによってのみ「人間関係」を乗り切ってきた主人公は、当然苦闘する。そのさまが第二幕の「骨子」である。
 そして「肉」に当たる部分は、あくまでも強気の姿勢をくずさないまま周囲の人間模様に翻弄される主人公や周囲にはびこる奇人に類する人々の姿の「おもしろさ」である。ここを、秀逸なギャグセンスでとことん「面白く」して、読者を楽しませる。作家の本領発揮である。
 一方、第一幕で主人公の対立概念として登場したのんきでおおらかな弟は、ここでも主人公とはまったく対照的に、なんの見返りも求めず、押しつけがましさのかけらもなく、人々を助け続ける。もしこんな人物を一人そのまま、たとえば主人公として出していたら、あまりにもありえなさすぎ、受け手に嘘くささを感じさせてしまうだろう。
 しかし彼は主人公ではない。「骨」を構成するわけではないのだ。
 具体的にいえば、弟の姿は悪戦苦闘する主人公の姿とのギャップそのものとして、「笑いの構成要素」に一見、見えるのだ。だから彼の存在は「骨」ではなく「肉」、つまり「おもしろさ、ギャグ」として受け入れてもらえる仕組みになっている。
 しかし、第二幕の骨子は、あくまでも「障害を乗り越えようとする主人公の姿」なのである。(それを正面から助けるのが弟である)。ゆえに、読者はさまざまなネタに笑わされながらも、気がつけば自分なりのやり方で人と向き合うことができるようになった主人公の姿を発見することになる。
 こうして書いてみると、「そんな風には感じないんだけれども」と思うかも知れない。というより、「そう感じさせないために」、内容である「肉」の部分をおもしろおかしく、説教がましくなく描くことが必要なのだ。
 もちろん逆もいえる。そういうベースのしっかりした、シンプルな題材を下敷きにしているからこそ、思い切った展開や笑いをはさんでも、ストーリーが混乱しない。奇人変人が異常といえるようなやりとりを繰り返しても、話の筋が迷走することはない。
 ギャグはギャグ。しかし肝心のストーリーは受け手の中で、確実に盛り上がっていくのである。
 そして第三幕で主人公は敵にあたる人物を物質的、精神的に屈服させ、成功を手に入れる。この結末において、作者がおそらく企図していたであろうストーリーの骨子が生きてくる。
 主人公のドラマ上の願望は、単にビジネスという競争の中での勝者になることから、家族に代表される近しい人々を守るために働き、助け、生きていくというものへと変化している。
 だからラストの主人公の姿は、決して傲慢なだけ勝者のそれには映らず、強気な態度の中にも親しみを感じさせる奮闘ぶりで、「夢の実現をしながらも、他人を助けて働いているのだなあ」、と感じられる。
 「そのようになるために」、主人公の弟である「春」という少年が、ほとんど聖人ともいえるような、他人への献身ぶりを示したのであり、その行動原理を主人公が吸収していくことこそが、このストーリーの骨の太さなのである。

(蛇足だが、この物語ではいわゆる起承転結プロットにおける「結」を非常に古典的な形で使っている。
 一般的には「結」はテーマの定着であるとされており、「この物語はこんなお話だったんですよ」というメッセージを込めて、ラストシーンとして作り手から受け手に対して、念押しの意味を込めてつけられるものだ。近年のドラマでは冗長として省略されるか、もしくは結で一波乱おこして「強く念押し」するか、いずれかが多い。
 が、ここでの役割は旧来の日本映画などでよく見られた、クラシックな意味での「結」である。つまり作者は、読み手に「主人公たちは結局は勝ったからこそよかったんだ。ゆえにこれはビジネス上の強者と敗者の物語だ」という解釈をされる可能性を、念入りに排除しているのである)


さて、いいかげん長くなってきたが、最後にもうひとつ書いておきたい。
「のだめカンタービレ」である。
これは「作品の”結果としてのおもしろさ”は、やはり”肉”のおいしさ次第である」ということをいうために、ぜひとも記しておきたいのだ。

このクラシック音楽ついての物語は、膨大の量のキャラクターが登場し、常に笑いをとりながらかつストーリーが進行していくという、読む方にとっては面白いことこのうえないが、かくほうはさぞかし大変だろうなあと思わずにはいられない作品である。

この作品の成功の理由は、「骨」の部分の徹底したシンプルさにあると思う。
非常に簡略に言えば、構成は以下のようだ。

第一幕における「大学編」で、理性的で音楽の「演じ手」として向上心のある男と、天真爛漫で「音楽はひとりで楽しくやればいい」としか思っていない女が出会い、行動をともにするようになる。
第二幕における「留学編」で、男はプロの演じ手として成長し、女は人に音楽を聴かせる楽しさを知り、努力するようになる。
まだ描かれていない第三幕(おそらく日本・プロ編か)では、まったく別方向から「音楽」に対してアプローチをしてきた二人が、なんらかの形(コンチェルトであることが予告されているが、どうなるかはわからない)でもって「音楽」についての、言葉ではなく物語の結末としてでしか伝わらない「答え」を示してくれるのだろう。

主人公二人の対立概念の使い方は「天才ファミリーカンパニー」とほぼ同じであるが、本作ではその対比ぶりがより徹底している。
生活態度、将来の考え方etc。なにひとつにているところがないといっていい二人である。
しかし「唯一残っている共通項」が「音楽を好きで演奏していること」。

こここそが、この作品の「骨の太さ」である。
なにしろ、作品のテーマが動くのが、「二人の音楽への想いが一致したとき」のみなのである。そしてその状況を演出しているのが、「のだめ」と呼ばれる女主人公の特異な性格ゆえなのだ。

たとえば第一幕。
学園祭で聴衆の心を打つ演奏をした男に対して、「同じように音楽をやりたい」と「のだめ」が思う。
しかし今のままではその願いはかなわない、という現実をつきつけられ、はじめて悔し涙という「ドラマティックな」感情をあらわにするまで、実に単行本で9冊を費やしている。

ほんとうに、動かないったらないのである。「主人公にしたくないタイプ」のキャラクターであることには間違いあるまい。

「フランス編」のスペシャルドラマを観て認識したのだが、このマンガは実に明快なプロットポイントをもっている。「フランス編」で「のだめ」が挫折をあじわってから聴衆へ音楽を聴かせることの喜びを得るまでの展開は、やろうと思えば約2時間半で過不足なく、きわめてドラマティックに描くことができるのだ。(その転換点である教会で演奏を聴く前後のシーンを、上野樹里が見事に演じている)

ただ、だからといってそこを短く描いてしまっては、「のだめ」を主人公にした意味がなくなってしまうのも事実だろう。(ここらへん、原作あってのドラマ、というところか)
この、いろんな意味で「ダメ」な主人公の歩みの遅さは、同時に作者の、クラシック音楽という長い歴史をもつ対象に対する敬意そのものであると思うからだ。

歴史ある、たくさんの人たちが愛する素材を描くためには、この場合の私の論旨にあわせる僭越を許してもらえるなら、それだけですなわち「きわめて骨が太くする」必要があるのだろう。

骨が太ければ、肉も厚くなければならないだろう。食傷しないためには丁寧に育てて、おいしい肉にしないといけないだろう。

と。

まあ、ほんとうに長くなりすぎたが、こういう感じで「構成とストーリー」の関係は「骨と肉」で説明できるのではないかと思った次第。

もちろん、いくら述べ立てても、この「道具」をつかった実作ができなければ意味がないので、まあぼちぼちやっていきまっさ。
これが私のおしごとです | - | -

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