頭から蒸気の記

★注意★ ネタバレありが基本です。 ご注意ください。

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【再録】なぜ私は川上弘美にびくびくしているのか

 川上弘美作品について私は、「ていねいで緻密」という印象をもっている。
 そういう表現ではくくれない作品も多くあるが、私の感想はそうだ。

 というようなことを書こうとしていたのだが、どうも筆が進まない。躊躇がある。なぜだ。なんだろう、この、語れば語るほど、語る己が馬鹿に見えてくるような恐怖感は。いまさら己の馬鹿を否定するほど馬鹿ではないはずなのに。
 そう考えながら作品群周辺を逡巡していたら、思い当たることがあった。

「豆腐屋への旅」だ。

「豆腐屋への旅」で私は豪快にすっころばされた。いや、自ら転んで大いに痛い思いをしたのだ。

「豆腐屋への旅」は川上氏のエッセイの一編で、「あるようなないような」に収録されている。最近買った本ではないので、最近ではない時期に読んだのだろう。
 ただし、そのインパクトは忘れがたい。

 エッセイ冒頭で、川上氏は「旅とはなんたるか」について意見を表明する。旅の形態はさまざまである。であるから、「豆腐屋への旅」も「ずいぶんたいしたもの」である、と述べる。

 ほほう。なるほど。まあよろしい。

 読者の特権で高飛車に読み進めるわたし。

 川上氏は電車に乗る。三十分ほどだ。

「また散歩か」

 私は思う。そして結局飲みにいくのか。いやいかないのか。などという点に注目してしまう私。

 「恒例だ」と感じつつも、ていねいな筆致に導かれて私は川上氏の散歩の様子を見聞きする。そしてしかし、エッセイはそのまま終わってしまう。

「えっ? 」

 いかないのか。

 豆腐屋にはいかないのか。

 それはアリなのか。「結局豆腐屋にはいかなかった」というオチらしい言葉もなしか。

 あわてて読み直す。しかしやはり豆腐屋にはいかない。立ち寄った様子もない。

 どうしてだ。「うっかり」か? いやそれはない。川上作品はエッセイといえど緻密だ。論理も構成もたしかだ。そのはずだ。

 「あざといことをされたのか」と、私は次の間に思った。善良そうな散歩は罠だったのか。豆腐屋を使ったトリックか。吃驚させられたまま逃げられたのか。

 疑心暗鬼にとりつかれ、血眼になって一語一語、ていねいに読み直す。そうしてやっと気づいた。

 川上先生はそもそも、このエッセイで「豆腐屋への旅」そのものについて書く、とはいっていない。「豆腐屋への旅の類」について述べる、とおっしゃっているのだ。「類」だ。「のようなものを」と例示しているだけだ。

 私が「類」を読み飛ばしてしまっただけだ。不注意だ。こちらこそ「うっかり」だ。

 おまけに、初出一覧に、このエッセイは日本交通公社出版事業局の『旅』に掲載されたものだとある。ようするに、旅がテーマのエッセイの注文を受けて、そのつもりでこれからちょっとした外出のことを書きますが、これも私は旅だと思っているんですよ。だからそのつもりでよろしく。

 そういう挨拶文めいたものを、私が誤読したまでなのだ。




 まあそういうわけで。

 しかしあれですな。

 どうもその。

 やはり私は語らないほうがよろしいようなんですな。
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調子に乗ること厳禁

 なんだか仕事が好調である。
 さすがにそれに浮かれるほど若くはないのだが、当然、調子のいい仕事にひっついて
仕事が増える。

 これが問題。

 仕事が立て込むと、当然仕事をする時間が増える。それについてばかり考えるようになる。
 けど、仕事をやるのはいいが、どこかで冷めていないといけないナ、と思う。
 私ははっきりいって、ものがたりづくりのこととなると、無駄に熱く、理屈っぽい。
 ゆえに相当ウザい。
 だれもがこういう仕事に熱中しているかのごとくで、そういうものの見方しかできなくなる。

 これはよくないねえ。

 ということで、目下意識的に自重中。

 考えてみれば、書いて、モノを作ること以外に、やるべきことはないんだよね。
 それだけやってりゃいいのよ、それだけに専念していればいいのよ、この仕事は。
 ほっといても暑苦しいくらい熱いモノはもっているので、冷やしてやるぐらいがちょうどいい。

 そもそも、ものがたりづくりは特殊な仕事じゃない。技術も努力も根性も、ふつうの仕事となんらかわりはなく、やればやっただけ出来不出来に反映する。そして、誰でもやればやったなりに成果はあがる、世の中にあまたある仕事のひとつにすぎないだよねえ。

 ゆえに、オンもあればオフもあるべき。
 オンだらけにならないよう、努めてオフしようと思う次第。

 では。
これが私のおしごとです | comments(0) | trackbacks(0)

【再録】東京タワー オカンとボクと、時々、オトン (映画版)

 役者が凄まじいまでに良い。
 目を見張りますよほんと。
 スクリーンで観る、というのは、迫力あるアクションシーンを観るためでもあり、壮大な風景を一望のものとするためでもあるんだろうけれども、演技をつぶさにとらえるためでもあるのだということを、久しぶりに思い出させてもらった。
 現実に居るはずの人間の、実際にあったはずの瞬間を写し取る映画という技術の結晶だ。

 ご承知のとおり涙なしには観ておれないような話なんだけれども、映されているのが確かに生きている人間だということが、何よりの救いのような気がする。
 「実写」っていう言葉を、非常に肯定的にとらえることができる。

 原作があって、監督がいて、シナリオがあって、役者がいて、スタッフたちがいて・・・・そういう「人々の力」が感じられた。敬意をもってスタッフロールを最後まで逐一みていましたね。
 「あーこの映画をつくったのはこの人たちなのかあ・・・」って。
 メイキングのスタッフも載っていて、DVD出たらメイキング目当てに買おうかなとかも思って。
 この映画どうやって撮られたんだろう? 現場の雰囲気はどんなのだったんだろう? 少しでも感じ取りたいような気分。(逆にNGシーンとかはみたくないかも)

 松岡監督、夏の緑好きなんだろうなあ。「バタアシ金魚」思い出した。
 
 原作を生かし、かつ損なわず、っという松尾スズキの名シナリオ。そういうことって「出来る」んだねえ。「無理なこと」だと思っていた。

 観て良かった。
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夜は短し歩けよ乙女    森見登美彦

幸福な読書であった。そういうより他にない。

我ながら、もうちょっとなんとか言えんのかいとは思う。
この小説の魅力を、読者の立場から伝えうる、素敵な言葉はないものか。
実際他の言葉を探してはみたのだ。
けれど見つからなかった。

もしかしたら、もう少し待てば何か浮かぶかも知れない。
でも、川上弘美の「センセイの鞄」を読んだときも同じようで、結局いまだに何も浮かばず。

だけれども何かいいたい。コメントしたい。

というわけで、結局冒頭句に落ち着いてしまった。

(あえていうなら、「読みながら、自分の気持ちが満ちていくのがわかった」かな?
ただの紙にインクのしみがついているだけの物質なのに、それが生きている人間様の自分のこころみたいな部分に、ぐわんぐわんと何かを与えてくれているのがわかった。)


そういうような状態だから、以下ぐだぐだとまとまりのない雑想を続けるが、もし未読の方がおられたら、ここらでウインドウを閉じていただきたい。

別にネタバレだとかそういう堅苦しいことをいうわけではなく、(そもそもそんなたいそうな志のあるブログでもないが)、なんだかそうしたほうがいいように思える。

私の読者としての勘がそう告げているのだ。


そういうことで以下、よろしくお願いしたい。


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本書を読むにあたって、私はそうとう逡巡していた。
読みたくないわけはない。
評判も、評価も、そしてなにより私の読み手としての勘からして、「読むべきだ」という点においては、満場一致で採決がなされている。

ただ、いつ読むか。
どんなとき、どんな体調で、どのくらいの期待度で、そしてどんな必然性をもって読むか。

登り調子の若い作家の作品で、山本周五郎賞授賞、そして本屋大賞は「一瞬の風になれ」と票を分け合う形での2位。「読めなくなる」ことは、まあ考えられない。その懸念はない。

期待が裏切られることもあるまい。
万が一そうなったとしたら、きっと読み手のオレが何か下手を打ったに違いないってことだ、というくらいには腹をくくっていた。

逆に言えばつまり、本作に対して自分の心の中のハードルを上げるだけ上げていたともいえる。

「じゃあ読むか」

そう思ったのが一昨日のこと。
(そこらへんの些末な私の心の動きなんぞは余計なことなので書かない)

思った通り、読んでは戻り、いくらか進んではまた戻りという、私の「堪能型読書」のパターンに自然に入れた。
(一気に読んでもおもしろかろうが、私がこういう作品を読むときには、この方法が性に合っているのだ)

そして、本作は私が上げるだけあげていたハードルを、軽々と越えてみせた。

もう、本当はこんなべたべたな文句を並べたくはないのだが、笑って、泣いて、感動してしまった。

本の残りページ数が少なくなるにつれ、別れがたく、ますます行きつ戻りつを繰り返し、なんとかもっと長く読み続ける方法はないかと苦心惨憺し、しかし物理的物体である書籍のページ数が突然増えたりするわけもなく、結局読み切ってしまった。

そして、二度とこない初読の余韻を、しみじみと味わい尽くした。

(・・・・・あーもう、書いていて恥ずかしいじゃないか)


森見登美彦のデビュー作は、いわずとしれたファンタジーノベル大賞の「太陽の塔」。
私の知己のさる読書家とこの本の話をしたことがある。
彼は私の、「これ、青春小説といえますよね」という問いかけには直接答えず、

「この作品をファンタジーノベル大賞に応募した著者の見識は高い」

といった。

作品のジャンル分けだとか、著者の自分の資質についての把握の仕方などというケチくさいことはいわず、「見識が高い」と。

「夜は短し〜」を読んで、その知己のコメントは、古風な言い回しだが、正しい言葉遣いだったのだと、あらためて感じ入った。

それに比べて私はというと、実際このブログでも書いたように(再録しました)、「太陽の塔」は本作とは別の意味でコメントが難しく、気に入ってしまった割には誰にでもわかるような、距離をおいたうわっつらの部分を述べただけである。

だって、本当に「コイツすごいぞ」と勘が告げる声が大きすぎて、頭がフリーズしちゃったんだもの。
確かにいえる部分は、そこだけだったんだもの。
私の読書家としての「読む力」なんてそんなもんなんだもの。

ああもう、それにしてもだ。
まさか本当に「飛ぶ」なんてなあ。
21世紀の、現代社会を舞台にした小説で、ほんとにほんとの意味で飛びやがるとは思いもつかなかった。

いや、正直にいおう。

そんなこと小説で出来るわけないと思っていたからこそ、はからずも落涙してしまったのだ。

小説はすごい。
もちろん森見さんもすごい。

だってさ、すでにこの世の中には宮崎駿というアニメーション映画監督が存在して、数々の名作をモノにしているんですよ?
そりゃあ「才能」という意味では、森見登美彦氏は宮崎駿に勝るとも劣らないものをもっているかもしれない。

でもさ、俺が思わず連想してしまった、たとえば「千と千尋の神隠し」なんてさ、巨大な資本が名門スタジオに投下されて、大勢の優秀なスタッフを動かしうる、監督兼制作進行ができる天才がつくったわけですよ。

それをだ。
京都で机に向かって呻吟しながら一文字一文字原稿のマス目を埋めている(たぶん)30前の男がさ、つくっちゃったわけですよ。
そんなシーンをね。ちゃんと。世界に冠たる大監督がつくったものに勝るとも劣らない、そしてオリジナルな名シーンを。

もちろん私が今使った「飛ぶ」という言葉は、比喩だとかイメージだとか現実と夢想だとか爽快感だとか、演出上のテクニックだとかそういう創作の一切合切を含めた意味で使われる、「飛ぶ」だ。

「ほんとに飛びやがった」

とあっけにとられながら上空を見上げるという意味での「飛ぶ」なんですよ。

あれですよ。
しょっぱなから摩訶不思議だけれども現実とは着実に交錯している物語からはじめられてですよ、そしてさまざまな布石を打ちつつ読み手を楽しませながらですよ、「もういいです。これ以上は望みません。どんなラストでも甘んじて受け入れます。でもきっと面白いんでしょうね?」みたいなことを思っている読み手(俺だ)にですよ、つきつけちゃったんですよねえ。

参るわ。

もちろん、面白く感激するところは他にも山盛りある。
いやもう、そんなところばっかりだ!
面白くないところを見つけるのが難しいぞ! もっともそんなことしないけど!

ほんとうにまあ、いやあ、もうなんて言ったらいいんだろう?
なんかいい言葉はないもんかなあ。

あれ?

なくてもいいのか。

だって私の目の前には、本があるもの。
手触りも質感も現実として感じられる、紙にインクがついた物体が、ここにあるんだもの。

そしてタイトルには堂々と、

「夜は短し歩けよ乙女」

とある。

これ以上、何を望めばいいのか? っちゅう話ですよ。



「ないよね?」ってことで、雑想はおしまい。じゃ。
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【再録】オフィス北極星     真刈信二・中山昌亮

 古いマンガで恐縮ですが、「オフィス北極星」を再読。
 90年代のアメリカを舞台にした、日本人リスクコンサルタントの物語。
 シビアな訴訟社会の現実が描かれるなかで、要所要所ではさみこまれている「人間の心意気」のようなものが物語を大きく左右する。そこがまた泣けるんだ。

 米国にほんのわずか「缶切り」を輸出していたため、悪徳弁護士たちの罠にはまってしまう日本の小さな町工場のオヤジ。(この風采のあがらない男の職人気質が実にいい)。また、父親のためにアメリカでその「缶切り」を唯一扱う小さな店の老人に、つたないながらも英語の手紙を書き、助力を求めた娘。

 ひとつ間違うと露骨なお涙ちょうだいになってしまうエピソードだが、べとつくような無駄な演出は排除されており、ストレートな誠意だけが伝わってくる。

 日本人の例ばかりになるが、グリーンカードや保険、貧困などの問題で医療を受けにくい人々のため、制度や法律を犯してでも医療行為を続ける医師。そんな人間、いくらなんでもありえないだろう、と一瞬は思ってしまうのだが、なぜだかひきこまれてしまう。ストーリーが進むにつれて、「こんな人間が居て欲しい」という、読み手としての自分の願いが押さえきれなくなって、彼らに無慈悲な法の裁きがくだされることに我慢できなくなる。

 そういう、ある意味現実離れしているとさえいえるほど高潔な彼らを、文字通り「リスク」から守ってみせるのが、主人公・時田と個性的なパートナーたちだ。
 時田は一筋縄ではいかない、一種の変人として描写されており、人物像として実に深みがある。物語の成功は、おそらくこの男の魅力と力強さに相当、負っている。ロジカルに展開せざるを得ない法廷モノのとっつきにくさも、彼がカバーしている。それは確かだ。しかし、もうひとつ感じたことがあった。

 実はこのマンガを読む前日、名作と呼ばれている推理小説を読んだ。
 面白い。一気に読める。実に論理的で見事な構成と展開だ。
 だが、なにか満たされない。なぜだろう? と思っていた。

 たぶん、合理的すぎたのだ、と今は思う。
 正しい論理、隙のない設定。
 それは大切。それがないと物語は成立しない。

 だが、それらはあくまで道具である。なにかを描き出すため、読者をしらけさせないよう、最新の注意を払って「らしく」見せようとするための技術。
 
 それらを使って「何」を描くのか。そこが問題だ。

 時田のような主人公? いや、彼ならあの推理物の探偵役だって務まるだろう。

 ならば、とさらに考える。

 意外に、そのまま描くと薄ら寒くなってしまうほど高潔な、脇役たちの「心意気」そのものではないだろうか。

 なんか、夏目漱石と自然主義一派の論争で、似たようなことをいっていたよな、などと思い出しつつ筆を置くなり。
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【再録】太陽の塔     森見登美彦

 強烈な人物設定と前衛的ともいえる文章。
 「一般的な小説」とは明確に差異化された本作は、いかにもファンタジーノベル大賞らしい。

 私がその中でもっとも注目したのは、冒頭と結語。

 テーマをそのまんま書いてしまっている。

 まあ、テーマといってもいろいろな見方があるが、シド・フィールドはシナリオワーク用の本で、たとえば「レイダース」のテーマは「考古学者が、何世紀もの間失われていた有名な文書と聖柩を取り戻す」というふうに簡潔に書ける、としている。しかしそれはあくまで書き手側が指針を見失わないためにメモしておくもので、受け手には決して率直に述べてはいけないたぐいのことだ。一般的には。

 しかしそれを書いている。

 ようするに、本作を素直にこう読んでしまっても全然構わない。

 「この小説は、”冒頭句のような主張をもっていた主人公が、結語のような考えにかわっていくまでの過程の物語”です」

 もちろん、他の読み方や感じ方もできるし、むしろ好き嫌いを含めて多様な意見がでそうな作品である。

 もしかすると、だからこそこういう手法をつかって、物語の明確な軸をひとつ提供しておいたのかもしれない。そうも思った。

*感想、というには少々分析的すぎるかもしれない。
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【再録】大東京トイボックス(1)  うめ(小沢高広、妹尾朝子)

 結論をいう。
 手放しでもちあげたい。

 誇張表現ではなく、ほんとうに一コマ一コマ、すみずみまであじわいながら、文字通りのめり込んで読んだ。
 それだけ期待も大きかったということなのだが、私の予想をはるかに超えて面白く、読み応えがあった。

 発売は一昨日(2007年3月)。もう何度も読み返した。それでもまだ読みたいと思う。それぐらい素晴らしい。

 私はゲームをしない。だからこのマンガの舞台であるゲーム業界についてはまったく無知だ。アニメや特撮のネタが多数でてくるのだが(そうだとかいてあるのだが)、正直なところまったくついていけない。わからない。
 それでも、そんな私個人の事情は、この作品については読む上ではまったく障害にならない。知識の有無ではなく、描かれ方に説得力があり、「きっとこうなのだな」と思わせるだけの表現力がある。そしてなにより、語るべきことへの確かな手応えを感じとることが出来る。

 この「うめ」という漫画家さん(たち)、「ちゃぶだいケンタ」にしろ、「東京トイボックス」にしろ、連載時、いい感じで盛り上がってきたところで、(私にとっては)釈然としない打ち切りという憂き目にあってきた。

 しかしその度、飛躍的に腕を上げ、私の前にあらわれてくれる。

 その不死身っぷり。

 期待をするなというほうが無理なのだ。
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【再録】水曜どうでしょう祭 (最新DVD「西表島」特典映像)

 「西表島」入手後(2007年3月)、一日かけて特典映像の「どうでしょう祭」の副音声部以外は見切った。目が痛い・・・・肩こり再発・・・・でも楽しかった。

 特典の「水曜どうでしょう祭」映像。
 泣くかな? と思ってたらラストでやっぱり泣いた。

 水曜どうでしょうの公式HPの「ウラ」に「水曜どうでしょう祭 9th UNITE2005 」と題されたD陣によるレポがあるんだけれど、読むたびに泣いちゃうんで。あれ自体、何度も読んでいるはずなんだけど。
 特にステージ後、楽屋でのミスターについて書かれた部分を読むと、もう条件反射的にぽろっと・・・・。俺の涙腺のゆるい、お手軽すぎる部分が逆にうらめしいくらいだ。

 映像自体ははじめて見たんだけど、みんな楽しそうで、幸せそうで、なんかこう、明らかに、「よろこんでいる」んだよね。あたりまえっつったらそうなんだけど、なんか、いわく言い難い、伝わるモノがある。

 ああいうの見ると、喜んだり、楽しんだり、嬉しく思ったり、そういう感情を体験することって、ニンゲンが生きる目的なんじゃないかなとさえ思えるんだよね。まあ、目的といってしまったら、それだけで満ちあふれていたらいいのかっていう話になるし、決してそうではないんだけど。

 でもほんとうに、いいね。

 うん、いい。
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【再録】鈴井貴之のほうを見ない安田顕

 録っておいてあった「水曜どうでしょうクラシック」の「門別沖釣りバカ対決」をまたみていて、あることに気づいた。(後枠でonちゃんこと安田顕がモザイクなしで出てきた回)

 大泉・鈴井両氏の間にはさまる格好でイベントの告知をしたのだが、オンカメでしゃべっては大泉の方を向き、しゃべってはまた大泉の方を・・・・。芝居の師匠であるミスターこと鈴井貴之の方は一度も見ない。そして告知が終わるとミスターがぼそっと、

「しゃべり、うまくなったね」

 安田顕当時24歳。やっぱり師匠がこわかったんでしょうか(笑)
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水曜どうでしょうDVD第9弾 「北海道212市町村カントリーサインの旅2/サイコロ4〜日本列島完全制覇〜」

もはや完全に全国区となった、北海道のローカルTV局制作のバラエティ番組のDVD版シリーズ第9弾。
地元北海道での放送は10年まえだ。

(なあ〜んて堅苦しく紹介するのもなんなんですが、知らない人もいるだろうから一応ちゃんと書いておこうと思って(笑))

今でこそ著名タレントの仲間入りをした大泉洋も、この当時は大学生。
もうひとりのタレント、ミスターこと鈴井貴之も、札幌演劇界では名をはせていたものの、テレビとなるとほとんど無名の状態であったそうだ。

しかも、スタッフはディレクターが2人きり。深夜番組ゆえ予算も限られている。

ところが放送開始して1年をこえたこの時期あたりから熱心なファンがつき、いわゆる「カルト的」人気を博するようになる。

明らかにテレビ番組として「苦境」のスタートを切ったこの番組が、現在のように多くの視聴者に支持されるようになった理由の一つがこのDVDの副音声解説からうかがえたので、そのことについて書く。

この番組を特徴づける雰囲気は、ゆるく、いいかげんで、いきあたりばったりで、がんばってはいるが嫌みな押しつけがましさはない。
全体的に楽しく、あたたかで、そして(ここが重要なのだが)吸い付けられるようなおもしろさがある。

最初に見始めた頃は、いろいろな意味で「運に恵まれた番組」だと感じ、実際そういう部分も多々ある。

確かにハプニングに恵まれている。
だが、それを引き寄せているのは、ディレクター陣とタレントたちの、根気強さと率直さ、そして番組制作状況としては不遇ななかであみだされた数々の工夫だ。

この地道で、地に足がついた番組のつくりかたがあるからこそ、このバラエティ番組は単なるフロックでは終わらなかったのだろうと思える。

(まあ、後づけの理屈ならなんとでもいえるんだが。
それはたしかにそうなのだが、もうすこしつきあってほしい)

たとえば、だ。

副音声を聞く限り、チーフディレクターの藤村Dがとる方法の基本は「待つ」こと。
タレントにカメラを向けさせ続け、自ら会話に加わりながら、タレントが限界を超え、ありきたりな反応以上のものが引き出されるまで、ひたすらひつこく、えんえんと待つ。

このドキュメンタリー監督顔負けのしつこさは、番組上にいかんなく発揮されており、非常に目立つ。

しかし、(ここからが本論)今回の副音声ではじめてきづいたのが、カメラも担当する嬉野Dの方法論だ。

大泉洋が冗談めかして語っているが、嬉野Dはロケ中、タレントを「ヒマにしようとする」のだそうだ。
実際、シリーズ最新作では、VTRがまわっていない時、手持ちのDVDプレーヤーなどをみて時間をつぶそうとする大泉に向かって、

「あなたにはヒマになってほしいんだ」

という趣旨の指示をだしたらしい。

その意図するところは、

「ヒマになったら、自分でなんとかこの時間をおもしろくしようと何か考えるでしょう?」

だという。

これには驚かされた。

たとえばこのDVD化された2作品のロケ日数は、両方とも2泊3日。
つまりその時間内でとられたVTRをもとに、三十分番組を数本つくらなければいけない。
ディレクターの立場からすれば、「使える」部分をできるだけ増やそうと、タレントをせかしたり、企画をつめこんだりするのが普通、というか、そうしたくなるもんじゃないだろうか?

そして現在、大人気番組となり、けれどしかし、やはりたった4人で、たくさんの熱心なファンの期待を背に受けながら出発するロケ。
プレッシャーは相当なものだと思う。

しかしそれでもあえて

「ヒマになってくれ」

という指示を出す。

なかなかできることじゃない。
(そんな編集者いるかい?(笑))

よほどタレントの才能や発想の引き出し方について確信をもっていなければ、できないしいえない言葉だと思う。

とまあ、あんまりにも感心してしまったので、長々と書いてしまった。

でもほんと、すばらしく肝の据わった態度だと思いますよ。私は。
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